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金田 博之さん  94期(サッカー部)


"いろんなことに、そしていろんな人に好奇心を持って欲しい"



 

ゼットスケーラー株式会社 代表取締役

以前の職業: ライブパーソンジャパン代表取締役 / ミスミグループ本社MIGオープンネットワーク推進室 GM / SAPチャネル営業本部 本部長 同営業企画本部本部長等


出身校: 東京都立大学、INSEAD RMDP修了 東京都世田谷区在住


プロフィール

金田博之(かねだひろゆき)1975年山口県下関市生まれ。

1998年、SAPジャパンに新卒で入社。30歳からマネジメントを務め、7年連続グローバル・トップタレントに選出。

INSEADのRMDP修了。2014年、ミスミグループでGMとしてグローバルDX新規事業を推進した後、

AI/チャットサービスを提供するライブパーソン代表取締役に就任。

2020年12月、米国カリフォルニア州を拠点とするクラウド型ネットワークセキュリティーの最大手、

ゼットスケーラーにて日本を含むアジア全体を統括する代表取締役に就任。

これまで10冊の書籍を出版。プレジデント、ダイヤモンド、東洋経済、日経ビジネスなど各種メディア掲載実績多数


 

豊高を選んだ理由

 豊高を選んだ理由は文武共に優れた高校である印象が強かったため。当時は男子校だったが、現在では共学になったことを少し羨ましく思うOBです。


豊高での3年間を振り返って

 サッカー部でした。高校からサッカー部を始めたので練習についていくのがやっとでした。もちろんレギュラー入りはできなかったですが、諦めずにいました。ここで粘り強く努力をしていくことができたことが、その後の私の社会人人生の粘り強さに大きな影響を与えてくれました。でも、当時ウィングというフォワードのポジションでしたが通算で一点も取れなかった(取りたかった!)。こんな苦い思い出も、今では自分の成長の原資となる素敵な思い出です。

 豊高での3年間はとにかく彼女が欲しかったです(笑)。当時は文武両道の男子校だったので女性に人気の高校だったと思いますし、実際に女性にモテまくっている友人が周りにたくさんいました。私はバレンタインのチョコレートも貰えないくらいでしたので、モテる人たちが羨ましかったです。

 それと、これは自分の問題だったのですがクラスメイトとの距離感が掴めませんでした。友達をあだ名で呼べずに「くん」付けでないと呼べませんでした。あまり踏み込みすぎて嫌われてしまうのが怖かったのです。私は当時の自分自身のことを目立たない生徒だったし、大勢がいる友達の輪にも入れなかったと思っています。それでもとても楽しい高校生活でした。なぜなら友達が1人でもできると嬉しくて、そのためにたくさんの努力ができたからです。友人に対しても、女性に対しても相手の距離の取り方や近づき方を工夫する人間でしたので、同じような立場の人の気持ちに立てるし、こうした経験が今の経営者として人を動かしていくことの原動力になっています。

 毎年思い出に残る出来事は豊高祭でした。当時はバンド(イカ天)とダンス(ダンス甲子園)が凄まじく流行ってましたが、豊高祭でたくさんのクラスがバンドやダンス、そして「ねるとん(今でいう婚活パーティーみたいなもの)」で盛り上がってました。私はバンドとダンスの波に完全に乗り遅れました。しかし今だから友達にも言える秘密になりますが、3年目の豊高祭の「ねるとん」がきっかけで彼女ができたのがよかったです。男子校だったのと自分の当時の性格が作用して女性との出会いがほとんどなかったので。私を大切にしてくれる人たちを心から大切にしてきた豊高での3年間でした。


豊高卒業後の進路について

 上述のとおり周囲に対する強烈な憧れとその反面の強烈なコンプレックスがあったためか、その反動で「自分も憧れの存在になりたい」「自分の限界を決めたくない」「自分の可能性に賭けたい」といった意識が強く醸成されてきました。高校卒業後の進路も同様で、自分が憧れ、目指す大学の最高峰をまずは考えました。東大とまではいきませんが、大阪大学や名古屋大学を目指した記憶があります。当然、当時の私の偏差値はそこに到底及びません。でもとことん努力することができました。結果的に当時の私にとっては最高峰にかなり近い東京都立大学に合格しました。この体験から自分の範囲や周囲の常識で自分の将来を決めないことの大切さがわかりました。そしてこの体験が転職を含む私のその後の社会人キャリアの形成に大きく影響しました。

 蛇足になりますが、一浪して予備校生になって初めての共学、そして隣に座った女性が可愛くて、でも告白できずにひたすら大学合格を目指した少し切ない経験は今でも忘れていません。


大学卒業後の歩み

 大学卒業後の進路も大学進学と同様です。当時の同級生の多くが金融業界や商社に就職していましたが、私は当時知名度がなかった外資系のIT企業に就職したマイノリティだったと思います。ちなみに当時は就職氷河期です。

 (今もそうですが)当時の外資系は厳しい結果主義でその分の給料は高く、実力があれば評価もされる印象でした。学生を卒業した直後にリスク承知でいきなり海外のプロリーグに行き、そこで揉まれながら自分の実力を試してみたい感覚で就職先を決めました。当時は英語ができなかったのでかなり大胆な選択肢だったと思います。結果的には自分自身のキャリアに満足いく初速と成長の機会をもたらすことができました。




大変若くして、世界的なドイツの会社、SAPの本部長という重責を担われたり、その後も様々な企業で経営を決めるようなポジションでの仕事や代表取締役をされておられます。社長の仕事はどのようなものですか?また、金田さんにとって、人生の原動力となったこと、人生の指針のようなものがあればお聞かせ願えますか?

 私にとって社長の仕事は、全ての経営判断の結果責任を求められるということ。それは社員の人生にも大きく影響する仕事。そして組織や社員を動かして結果を出さなければならない仕事。その結果は社会に良い変化を起こしつつ数字にも確りと反映され事業継続性が担保されていること。常に優先度と緊急度の葛藤の中で行動していかなければならない仕事です。これが私のようなグローバル企業(外資系)になると、日本人以外の異なる文化や慣習を持つ社員を束ねなければならない仕事。そしてグローバルレベルでの競争環境とスピード感の中で判断や行動を起こしていく仕事。日本以上にハングリーな人材を動かしていく仕事です。


 そんな環境下で私の人生の原動力になったのは、仕事も私事にも持っている「ビジョン」、それは豊高時代に感じた「憧れ」の強さ(言い換えるとコンプレックスの強さ)が原資です。2つ目は「小さな成功体験」の地道な積み重ね。大きいことを考えつつも、普段の日常は一歩一歩成長を実感し自信と行動力に繋げ徹底的に現実と向き合うこと(言い換えると現実逃避しないこと)。そしてその小さな成功を再現していくこと。あたかも連続複利のごとくこうした地道な成功体験の積み重ねと自己投資の繰り返しが大きな成長の原動力になります。最後に「信頼できる人」。そのためには過去に人間関係でたくさんの失敗をしておいた方が良いと感じます。結果的に信頼する人を見極められる力が身につきます。経営者としては自分の幹部やメンター、人生においては自分が本当に困ったり悩んだ時に助けてくれる仲間が常にいる状態だと思います。私の人生の指針は「明るく、楽しく、前向きに」です。この頭文字をとって「あ・た・ま」を私の脳裏に焼き付けています。これは私が尊敬するある経営者から影響を受けた言葉であり教訓です。結局、人生を全うする時に自分が何のために生を受けて、自分自身にも家族や周囲にもポジティブな影響を与えてこれたか?私は「明るく、楽しく、前向きに」これからも人生を過ごしていきたいです。


在校生へのアドバイス

 在校生の皆さんに私がどんなアドバイスができるだろう?と考えましたがおそらく私が「こうあるべき」というアドバイスはないと思います。なぜなら皆さんが今後大学、社会と人生を過ごす10年後、20年後のあるべき姿を私が定義し考えるべきではないと感じるからです。もちろん私も今後10年、20年と人材育成に尽力していきます。

 でももし私が皆さんの今後の人生にインパクトある「問いかけ」ができるとしたら以下の3つです。

「漠然でも良いから自分がなりたい理想的な姿あるいは憧れの姿はありますか?」、それは「誰の意見にも左右されずに自分が心からなりたい姿ですか?」、「そのために一つで良いから今行動していることはありますか?」

あと、これはアドバイスではないですが私の願望を言うと豊高からグローバルレベルで活躍する日本人が育つととても嬉しいです。今から自分の可能性を最大限に広げて欲しいです。


これから高校を目指す若者へのメッセージ

 高校生活の3年間は皆さんが思っている以上に皆さん個人個人の人生に影響すると思ってます。高校生活の過ごし方で人生が決まるものではないですが、人生の可能性を最大限に広げる「起点」であることは事実です。だから3つの視点をお届けしたいと思います。それは、「いろんなことに、そしていろんな人に好奇心を持って」、「好奇心が持てたらそれに近づけるよう努力して」、「周りに左右されずにハマるものを最低一つ」持ってみるとよい気がします。





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