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時田 俊男さん 70期

豊 浦 と 私


 昭和44年に卒業(70期)して今年は55年目、同窓会総会の当番幹事は丁度199回目に当たりましたが、今年は124回と聞いて、灌漑深いものがあります。この間、会誌への寄稿は3度目(東京、山口)になると思います。

 現在73歳、我が人生を振り返ってみますと、受験前からの漠然とした憧れから現在に至るまで、豊浦と如何に多くの関わりの中で過ごしてきたことかと改めて強く感じられて、その一端を記憶の範囲で紹介させて頂きます。[在校中]幼い頃に下関東高校卒の叔母の存在はありましたが、いつの頃からか文武両道の校風に憧れをもって志望し、入学できました。

 そして、勝山から、長安線ではなく部活動後の帰宅便を考えて内日線のバスと唐戸から長関線の電車を乗り継いでの通学でしたが、登校すると部室に直行して校内用の服装に着替えてから教室に行くのが日課でしたが、3年間を通して五組、最後は私立文系のクラスだったと思います。

 

 放課後は、運動着に着替えて部活動(現ソフトテニス部)に明け暮れる日々で、戦績としては県内では上位レベルでもインターハイには届きませんでしたが、他校のメンバーとの勝負や交流を含めて充実した楽しい部活動であったように思います。三年生の夏が過ぎると、一応、受験勉強に精を出しながらも、部活動以外の友人との付き合いが多くなり、誘いに乗って生徒会活動のお手伝いにも関わったことで、秋の体育大会を盛り上げるファイアストームの準備や、その方面での他校の生徒との交流活動もありで、残り少なくなりつつあった日々を惜しみながらも、楽しむ方に奔走した記憶があります。


[学生時代]


 その結果、一年間の浪人生活を過ごし、昭和45年から東京で学生生活を送ることになりました。将来は行政マンを目指そうと、比較的早くから決めていましたので、法律の分野を中心にしながら、首都東京での政治・経済・社会の動向に関心を広げていくことにしました。大学では、高校時代の延長で体育会のソフトテニス部に所属することになり、特に、母校との関連はなかったものの、同じ体育会のバスケット部で活躍中の門田敏治さん(68期)との出逢いがあり、大変心強い思いをしました。

 春秋の関東学生や東京六大学のリーグ戦を日比谷公園コートで戦うことができ、試合毎の選手紹介で大学名や名前と共に『山口県立豊浦高等学校出身〇年生』というアナウンスが屋外の会場に響くのが、何とも言えない快感でした。

 東京には、「東京豊浦会」という同窓会支部があり、当時、本部同窓会長の江藤智彦参議院議員の事務所に事務局がありましたので、そのお手伝いがてら自由に議員会館に出入りさせて頂き、地方出身の学生としては公私共に望外の貴重な経験をさせて頂く機会になり、後々まで役に立つことになりました。

 また、同じ70期で現役組を含めて50名近く東京地区に進学しており、在校中の生徒会長の山際澄夫君(サンケイ新聞社を経て政治評論家へ)をリーダーに有志が参加して「東京豊浦春秋会」なるものを組織し、定期的に情報交流や親睦を図る他、母校との連絡会議等にも取り組んだものです。


[山口県庁時代]


 無事に学業を修め、昭和49年に目標の山口県庁に入りましたが、豊浦社会福祉事務所及び徳山土木事務所を経て昭和53年秋から山口の本庁勤務となり、土木建築部で公共事業の予算調整、商工労働部で企業誘致やテクノポリス、企画振興課で博覧会会場になったきらら浜開発や国際交流、教育委員会で社会教育、総務部で萩県民局や防災対策等で計37年間過ごさせて頂きましたが、その後半は、山口きらら博、国民文化祭やまぐち、山口国体(開催時は退職後)というビッグイベントにも関わり、そして、最後の3月には、東日本大震災への被災地支援の取り掛かりをして定年退職を迎えました。

 県庁内には県内各高校出身者の会がありましたが、旧下関市内の高校合同で「馬関会」があり、そこに県庁豊浦会8知事部局、警察本部各100名規模)として参加していましたが、豊浦会では、伊藤博彦さん(42期)、伊藤博さん(60期)、水野純次さん(66期9、友田有さん(76期)と当時在職中の4名の県議会議員にも加わって頂き、強力なネットワークでいろいろな機会にご指導を受け、また、後輩たちとも交流することができました。

 

 また、37年間の中では、平成2年から5年間は東京事務所勤務となり、商工労働部関係の省庁を担当して予算獲得や情報収集活動に当たりましたが、当時、労働省の事務次官が白井晋太郎(52期)さん、また、大蔵省主計局に広島国税局出身の山根英二郎さん(71期)もおられて、格別のご配慮を頂きました。それと共に、県選出国会議員との連絡調整も重要な役割であり、当時、本部同窓会長に林義郎衆議院議員を始め皆様方には、公私にわたって強力なご支援を頂きました。この頃に、若き安倍晋三秘書(途中から代議士へ)、そして、林芳正秘書との出逢いもありました。

 その後、平成9年から下関市役所に出向する機会がありました。2年間でしたが、商工や労働関係と共に特命で水族館の建替えも担当しました。流石にお膝元で、当時の議長の小浜俊昭さん(52期)を始め市議会や市長部局に多くの同窓生がおられ、複雑に交差する面もありましたが、最後は力強く応援して頂いたことを思い出します。当然、産業界にも広い分野で活躍中の先輩方が多くおられ、御支援や叱咤激励を頂きました。

[おわりに]県庁を退職して13年、下関に帰って8年になりますが、幸か不幸か、未だ現役時と同じような日勤の生活をしています。

 

 今回の寄稿は、私の就活における人生録のようになりましたが、豊浦で育ち、今日まで、多くの先輩や同級生との交流を通じて、沢山の恩恵を戴きながら今日を迎えられたことを改めて感じているところです。

 そして、これから、少しでも後輩の皆さんのお役に立てるような先輩になるよう、もう暫く、『老春時代』を前向きに生きてみたいと思います。

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