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笹倉 康夫さん 70期

高校時代の思い出

 兄が豊浦高校に行っていたこともあり、柔道好きの私にとっての進学先は、運動場が広い、白い土塀の、文武両道を掲げる豊浦高校しか考えられなかった。

 入学後に柔道部に入部してからわかったのだが、中学生の県大会で優勝した私たちの日新中からレギュラー二人、三位だった文洋中から一人、彦島中からも二人入学していた。残念ながら、柔道部に入部したのはその中の三人だけだった。指導できる先生はいなかったが、大学生の先輩が指導に来てくれた。夏休みの練習は下駄で通学しており、夏の終りには下駄がすり減って一枚の板のようになっていた。練習の後は松原電停の前にあった食堂で、焼きチャンポン2束八十円やかき氷を食べるのが楽しみであった。三軒屋の砂浜での走り込み、プール階段の上り下り、功山寺までのランニング。汗をかけば階段途中にあった井戸水で身体を拭いた。当時は木造の柔道場には電燈が無く、真冬の寒稽古は蠟燭をつけての稽古であった。警察機動隊との練習、北九大での練習、小月自衛隊との練習・・・。余談だが、それが取り持つ縁で柔道部の野原君と水泳部の三宅君が小月海上自衛隊の航空学生となり、野原君は最終的に一佐となり、小月教育航空隊の司令となって戻って来た。そんな猛練習の結果、インターハイ予選では決勝に進出したが水産高校に負けて残念ながら準優勝。私は個人戦で負けて3位となった。しかし、今考えると、このとき勝たなかったことで、勝ったよりも、おぞらく私にとってその後幸せな生活を送れたのだと思っている。

 

 一方、勉強に関しては、思い出しても赤面することばかりだ。当時のクラス編成は、一組が成績上位者の入る組であった。自分も当然その組と思っていたが、三年間、一度も一組に入ることはなかった。赤面するほどの成績のため、同期が二十人くらい行く羽目になった「豊高OB分校」といわれた小倉育英学館に通うこととなった。一年間の猛勉強の末、東京の大学に行くこととなり、下関駅出発の寝台特急に乗り込むと、プラットホームに同級生が多数見送りに来てくれて、大学名を大声で言いながら皆で万歳をして送り出してくれるのだが、電車がなかなか出発せず少し恥ずかしい思いをしたのを覚えている。

 

 高校生活といえば長府高(当時は女子高だった)との楽しい思い出を書かない訳にはいかないだろう。市内電車で通学していたので、唐戸で長関線(山電)に乗り換えるのだが、前のドアからは長府高の女子、後ろのドアからは豊高の男子が乗るという暗黙のルールが存在した。しかし勇敢にも前から乗り込む不届きな豊高生もいた。車内では、座っている者が前に立つっている者のカバンを持ってあげるという美しいルールもあったが、私は一度も女子生徒にカバンを持って貰ったことはなかった。体育祭や文化祭が終わると女子生徒とフォークダンスを踊るという楽しみもあったが、これも恥ずかしくて参加したことはなかった。

 豊高全体の雰囲気は、中学校と比べてまったく自由だった。生徒指導の国語の福元先生は生徒を叱ることなく、豊高の生徒はしっかりしている、といつも持ち上げるばかりで生徒を大人扱いしていたと思う。校長の定近先生が、遅刻しそうで塀を乗り越えようとした生徒に、「危ないので、門から入りなさい」と注意したという話も聞いた。

 

 振り返ると、高校生活は楽しい時間を過ごしたことしか思い出せない。

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