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矢野 敏功さん 86期


「出逢いはいつでも偶然の風の中」


 タイトルは、さだまさしさんの『天までとどけ』という歌の歌い出しの部分です。偶然出会った人、歌、物、風景で人生が大きく変わることがあります。

 小学6年生のとき、「ザ・ベストテン」という歌番組にさだまさしさんが登場し、先の『天までとどけ』を歌いました。それが、私とさださんとの出会いでした。『いい曲だな。』と思った私が、初めて買った歌謡曲のシングルレコードが、この『天までとどけ』でした。そのさださんがその次に出したシングルレコードが、知る人ぞ知る『関白宣言』でした。その曲を聴いて、『この曲をギターで弾いてみたい!』と思い、親に頼んでアコースティックギターを買ってもらいました。クラシックギターを半年習い、以降独学でギターを弾き続けました。このときに音楽的な知識を身につけました。


 豊高に進学しました。1年生の時に倉田先生から数学を習いました。かなりのご高齢で、ボソボソと消え入りそうな声で授業をされていました。放課後、倉田先生は、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを着けたまま長靴を履き、麦わら帽子を被って花壇の手入れをされていました。何ともチグハグな風貌の倉田先生でしたが、私は、この倉田先生が何故か大好きでした。そして、いつしか『教師になってみたいなあ。』と思うようになっていました。しかし、それは、後に現実のものとなりました。


 豊高で勝山中出身の稗田君と春国君と友達になりました。二人の紹介で、勝山中出身で下商生の竹島君とも友達になりました。竹島君はギター仲間でもあり、よく彼の家に行って一緒に弾いて遊んでいました。その竹島君の家にピアノがありました。彼の家に遊びに行ったときには、ピアノも弾くようになりました。そして、いつしかある程度の演奏ができるまでになっていました。


 小学校の教員になるべく大学に進学しました。その頃は、今ほどたくさんの娯楽もなく(もちろんインターネットも)、暇つぶしに大学のピアノをよく弾いて遊んでいました。ちりも積もれば山となります。高校時代よりピアノの技能がかなり上がりました(自称ですが)。

 大学卒業後、大津郡油谷町立油谷小学校の教員になりました。2年生の担任でした。音楽の時間にピアノ伴奏する私の姿を誰かが見られたのでしょう。1年目の卒業式で国歌と校歌を伴奏する大役を仰せつかり、何とかその責を果たすことができました。


 安部元総理のお父様である安倍晋太郎先生は、油谷小の前身である石原小の出身です(啓迪小、済美小、石原小が統合され油谷小となりました)。安部先生が亡くなられて、油谷町で町民葬が執り行われることとなりました。そこで油谷小の六年生児童が『ふるさと』と『石原小学校校歌』を歌うことになりました。しかし、『校歌』のピアノ譜がありません。主旋律のみの楽譜を渡され、「伴奏をお願いします」と言われました。仕方がないので、自分なりにアレンジして、何とか形に仕上げました。それをカセットテープ(うわっ、死語ですね!)に録音して、無事に町民葬で使われました。


 私の半生は、とても華やかなものとは思いません。しかし、もしも、さださん、『関白宣言』の歌、倉田先生、稗田君と春国君、竹島君に出会わなければ、もしも、私がギターを弾こうと思わなかったら、豊高に進学しなかったら、竹島君の家にピアノがなかったら、娯楽のたくさんある現代で大学生活を送っていたら、私の人生は大きく変わっていたでしょう。本当に、「出逢いはいつでも偶然の風の中」だと思います。今は、それらの出逢いの全てにとても感謝しています。


矢野敏功(やのとしあつ)

86期:下関市立角倉小学校教諭

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