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磯部 芳規さん 81期

「回想 時代の変化の中で」


 10月秋の試合シーズンが終わると陸上競技部には楽しい脱走の日が訪れる。功山寺周辺や御船手海岸だったか、学校から外に出て、冬季練習という名のイベントが始まるのである。脱走を寺田先生に告げるのは大体キャプテンの務めだったと記憶する。ほんの数回だが先生に「今日の練習は学校の外で坂道を利用してトレーニングします」と報告に行く場面に付き添った。普段なかなか怖いイメージの先生だが、この時は「なに~」とか「お~」のあと、「車、事故に気をつけろ」といった優しい言葉が続いた。そして功山寺に行くと階段で「グリコ・パイナップル・チョコレート」ジャンケンが始まる。海岸では先輩後輩関係なく分かれてのアメフト。この時はじめてアメリカンフットボールのルールを先輩から学んだ。オフシーズンにもシーズン中と同じワクワクした記憶が残っている。

 私は38年間の教員生活を「もうやりきった」という思いで終え、3年目を迎えている。しかしまだ教育に携わっている。今、教育界は大変革の時期を迎えている。

 ほんの数年前まで中学生約8割(高校生約7割)加入していた部活動が中学校で地域移行しようとしている。平成24年約中学生6700名だった生徒数は令和5年約5700名、今年は約5500人となっている。少子化が進んでいる。学校単独でチームが組めずに他校と合同部として活動するケースも出てきている。一方、教職員の献身的な勤務の下で部活動は成り立ってきた背景がある。部活動は今や社会問題となっている。

 

 仕事柄、中学校の学習指導要領を読み返す。生徒の自主性、自発的参加により行われる部活動はスポーツや文化、芸術に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養に資するものと書いてある。ふと寺田先生を思い出す。

 厳しい練習の日もあった。この練習は何の意味があったのだろうと考える事もあった。先生は怖く、先輩たちの競技力は高く頼もしいが後輩を感じるには十分な状況であった。陸上競技部は当然陸上競技をしたい仲間が集まっていた。しかし、陸上競技をするのではなく陸上競技部で誰よりも速く、誰よりも跳び、誰よりも投げるを決して1番になれなくても1番を想像し人間の能力を楽しんでいたように思う。部活動は決して授業と違ってやらないといけないものではない。しかし、部活動は厳しい練習も試合の勝敗も関わる人間もみんな楽しい出会いと思い出となる。教育の目的は何かとよく問われる場面がある。生きる力と瞬時に答える先生が多い。では部活動の目的はと聞くと生徒指導、忍耐力、精神力と答える先生が多いようだ。しかし陸上競技部にはそれらの特徴を全て網羅した楽しむ力があるように感じた。決して義務でない自主的、自発的な活動の中で生まれる力である。今も時々陸上競技場に立つ私は昔を思い出すことがある。高校時代は東京に行かないとゴムのトラックはなく専用シューズは見たことがない時代であった。今は全天候トラックは下関にもあり、オリンピック金メダルの選手のシューズはネットですぐ手に入る。トレーニングや試合に関する情報も瞬時に収集でき学べる。そしてこのような中、選手はより優れた環境を求めて都会を離れはじめた。下関のトラックでも日本で一番速い選手、一番遠くへ跳ぶ選手、一番ハードルを駆け抜ける選手を観ることがある。私の現役時代には考えられないことだ。都会に行き修行を積むという考え方はもう遅れてきたのかもしれない。魅力ある街には魅力が生まれる時代がきている。ネットで時代は変わり、考え方を変えることが求められているようだ。society5.0の始まりだろうか。

 

 怪我をした時、無理なものは無理。お前の筋肉じゃ世界とは戦えん。お前が無理ならできるやつに教えろ。勉強しろと言われた。先生時代は、お前が自分一人でしたいことをするなら文句はない。たが、自分がしたいことのために先生方や仲間に協力をすぐ求めるなら「甘えんな」。子供の自主性?危険な言葉。ほったらかしにするな、しっかり考えてやれ。と指導を受けた。寺田先生からは、時代を変え、時代を動かす力は何かを教える姿を学んだような気がする。そして先生にようやく教え子が日本一になった事を心の中で報告する。

 終わりに臨み第124回豊浦高校同窓会の開催、誠におめでとうございます。また、同窓会川上会長様をはじめ役員の皆様には、今回会誌への寄稿という機会を与えて頂きましたことお礼申し上げます。山口県立豊浦高等学校のますますのご発展と会員皆様のご健勝を心より祈念申し上げます。

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