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齊藤 昌昭さん 75期

 同窓生の皆さん、こんにちは!75期の齊藤昌昭と申します。現在、私は地元下関を中心として宇部や松山などで事業所を展開する介護サービス提供組織の経営と社会福祉法人の理事長を務めております。また、母校野球部OB会の会長と同窓会の役員も務めております。


野球部時代の思い出

 現役時代の想い出は、何と言っても野球しかありません。私が小学校3年生の時に鉄腕池永投手を擁する下関商業が春の選抜高校野球で全国優勝を果たし、翌年には早鞆高校が夏の甲子園で準優勝しました。特筆すべきはその年の山口県大会地区予選の2回戦に下関球場で下関商業と早鞆高校が激突したわけですが、全国の高校野球関係者はこの地方予選こそが甲子園での事実上の決勝戦だと注目していました。高校野球史上、後にも先にもこの様な話は聞いた事がありません。それ程当時の山口県、特に下関の高校野球界は強豪がひしめいていました。よって、当然のこと、その頃の下関の野球少年は「S」か「H」のユニフォームに憧れ甲子園を夢見ていました。しかし、小学校を卒業して中学でも野球をやるころから、高校野球の情報が中学生にも入ってきます。「下商は県内の有望選手しか入部させないし、練習も滅茶苦茶厳しいらしい」「早鞆は、朝から晩まで練習して、体罰が凄いらしい」等です。また、家族からも「野球のことばかり考えないで将来の進学のことも考えないといけないよ」とくぎを刺されてしまいました。そこで、文武両道を標榜する豊高を目指したわけです。

 そして、私が在学していた東部中学から4人の野球部員が豊高を受験し、全員合格することが出来ました。仮入学が終わると直ぐに練習に参加するように言われ、行ってみると、そこには鬼よりも怖い内山先生「きんちゃん」がいました。「きんちゃん」は最近でこそ、すっかり好々爺になられましたが当時は本当に怖かった。他の生徒にはいつもニコニコ顔で面白い話をして大変人気がありましたが、野球部員の前では笑顔を見せることなく、いつも不機嫌そうでしたので、まともに顔を見ることすらできませんでした。また、我々東部中学組を入れて14人の一年生が野球部に入部しましたが驚くことに市内の中学での主力選手ばかりで「このチームで自分はレギュラーにはなれないのではないか」と思ったほどです。そして、入学直後に市長旗争奪杯野球大会が昔の下関球場で行われたのですが、そこには小学生のころ憧れていた「S」や「H」と互角以上に戦っている「TOYORA」がいました。この後直ぐにベンチ入りしたので、スタンドで帽子を振り校歌を歌いながら応援したのは一度だけでしたが本当に素晴らしい高校で野球をすることが出来て、良かったと実感した思い出です。


 一方で嫌な思い出もありました。新チームになるとキャプテンに指名されたのですが、キャプテンの役目として毎日体育教官室にその日どのような練習をするのか「きんちゃん」に聞きに行くわけです。「先生、今日はどの様な練習をしましょうか?」と聞くと不機嫌そうな表情で「勝手にせいや」の一言。こっちはそれを真に受けて自分たちで考えて練習をしていると、おもむろにやってきて「誰がそんなことを、せい言うたか!」と怒鳴られたものです。野球も教えてくれましたが、世の中の理不尽さも教えられたと思っています。しかし、本当に怖くて何を考えているのか分からない「きんちゃん」でしたが、私生活を投げうって我々を指導してくれているその姿をいつも見ているうちに、勿論、野球が大好きで目標として甲子園を目指しているわけですが、「きんちゃん」の為にも頑張ろうと皆思っていました。しかし、結果的には最後の夏の大会で私の大エラーがもとで負けてしまいました。目の前が真っ暗になるとはまさにその通りで、今でもその瞬間が夢に出てきて飛び起きることがあります。本当に同期の野球部の仲間には申し訳ない気持ちで一杯です。今でも会うたびに謝ってばかりいます。あれから50年以上たち今は野球部OB会の会長をしているのも、一つには当時の仲間に対する罪滅ぼしの気持ちがあるからです。勿論、OB会として母校野球部に対し物心両面で支援して、甲子園に出場させるのが使命と思っています。



OB会の活動

 26才の時に下関に帰ってきましたが、以来ずっと野球部OB会の活動をしています。ご承知の通り豊高は1898年に創立されました。そして、翌年には野球部が創部された伝統校です。126年にも及ぶ長い豊高野球部の歴史の中でOB会がいつ出来たのか記録はありませんが、私が4代目のOB会長だそうです。OB会組織としては会長の私のほか、78期の上野君、81期の新村君、85期の八角君、90期の阿川君が副会長として、また、98期の藤井君が事務局として頑張ってくれています。毎年8月15日には市内野球部OBが下関球場に集まりOB戦が開催されますし、その夜は懇親会が行われます。そして、12月29日には豊浦野球部OB会納会と称して忘年会が行われます。多い時で80名近くのOBが集まり時代を超えて同じグランドで汗を流した仲間として交流を楽しんでいます。

OB会の会費は母校野球部に寄付をするわけですが、お金がかかるスポーツである野球ですので、まだまだ潤沢とは言えません。これを見られている野球部OBまたは同窓生の皆さん、母校野球部に対する援助をよろしくお願いいたします。

 豊高野球部も1997年の春の選抜大会を最後に27年も甲子園に出場出来ていませんが、最近の山口県高校野球は下関国際が一強とされ中々チャンスがありません。現在の佐々木野球部監督は最後に甲子園に出場した時のメンバーですが、本当に頑張ってくれています。OB会としても何とか佐々木監督の努力に報いるように支援していますが、そもそもの問題として昔の様に有望な選手が入ってこないのが現状です。男女共学になり少子化の影響でTOYORAブランドに魅力を感じない中学生が増えてきました。よく、中々試合で勝てないと、あたかも監督の指導力に問題があるのではないかとの意見がありますが、高校野球は入学してから最後の夏の大会まで実質2年4ヶ月しかありません。その短い間に元々の能力に差がある選手をいくら鍛えた所で「勝てるチーム」を作ることは実際に無理な話なのです。

そこで、未だ協議中の段階ですが、学生寮を作ったらどうかという話が持ち上がっています。学区制が廃止され、今の高校生は入学試験に合格さえすれば全国どこの高校でも自由に入学できます。現状では野球部以外の運動部、例えばインターハイ常連のバスケットボール部や体操部・陸上部の生徒等はよその地区から学校の近くのアパートで一人暮らしをしている子も少なくありません。野球部においては逆の現象で甲子園を目指している中学生が高校を選ぶ時、寮が無い豊高にわざわざ一人暮らしをしてまで来てくれる子は居ないのです。勿論、寮が出来れば運動部以外の生徒でも受け入れらますし、勉強も疎かにならないようにセミナールームも併設したいと思っています。もし、決定すれば同窓生の皆さんにも寄付のお願いをするようになりますが、その時はよろしくお願いします。



近況報告

 冒頭でも触れましたが、現在、私は介護サービス提供組織を経営しています。元々は父親が創業した土建屋の二代目だったのですが、公共工事が激減していく中、丁度2000年に介護保険制度が施行されたのをきっかけに多角経営のつもりで始めた「介護」が今では本業になってしまいました。下関だけで60事業所を運営し、昨年から宇部や四国の松山にも進出しました。今年中に防府や小倉に高齢者介護施設も着工します。現在、パートを入れると850名の従業員がいますが、今後ますます少子高齢化が進むので最大の経営課題は人手不足です。

 また、詳しくは述べませんが、介護業界はサービスの種類や職種が他の産業よりも圧倒的に多いのでまとまりがありません。その業界全体に大同団結を訴える為に「一般社団法人 全国介護事業者連盟」という組織がありますが、私はその山口県支部長を務めています。もしも、同窓生の皆さんの中で親御さんに介護が必要な方は、どうぞご相談ください。うちの会社は野球部の後輩を含め豊高出身者が多数いますのでご安心出来ると思います。

 そして、昨年から同窓会の役員も拝命し、微力ながら川上会長の下で同窓会運営のお手伝いをしております。

私生活においては、現在、名古屋にある日本福祉大学大学院の博士課程で福祉経営に関する学術論文を執筆中です。生まれてこの方、勉強というものを全く真面目にやらなかった事を最近になって後悔して始めたわけです。年寄りの冷や水かも知れませんがライフワークとして取り組んでいるところです。



内山先生との想い出

 最後になりますが、恩師である内山先生には大変お世話になりました。文中では「きんちゃん」などと愛称で書きましたが、野球部現役時代には、本当に恐ろしくて近寄りがたい存在の先生でした。しかし、野球が終わると物凄く面倒見が良くて、卒業して飲みにも連れていってくれましたし、色々と相談にも乗って頂きました。また、結婚する時は仲人も引き受けて頂きました。そして、昨年は同期の野球部が久しぶりに全員集合して先生の米寿のお祝いをしました。今でも先生は山口県高校野球の顧問として球場に足を運んでおられますが、どうかいつまでもお元気でお過ごしください。先生が元気な間にもう一度甲子園に行きましょう!


75期 齊藤昌昭 野球部 

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